2021年9月21日火曜日

「価値観の違う人と話すことこそが『楽しみ』である」

こんにちは!スタッフのゆづきです。

先日、Co-EdoのブログでNVCについて妹と話したエピソードを共有させていただきました。
その時に、
「すべての価値観に良い悪いはなく、より多くの価値観に触れたい、価値観の違う人、考え方の違う人と話すことこそが楽しみである」そんな風に人との関わりをとらえていた私にとって、NVCという方法は私の考えをロジカルに体系化してくれた、わかりやすく示してくれたものだったのです。
と、しれっと書きましたが、今回はこれについて掘り下げて考えてみようと思います。
何故価値観の違いを認め、それを楽しめるようになったのか。それは、“正しさ”という価値基準が本質的には存在しないということに気付いたからでした。ざっくりいうと中学の3年間でこれに気付きはじめ、高校3年間で実感した、という感じです。

恋愛の話で考えた“正しい”恋

普通の女子中高生だった私は、ほぼ毎日恋バナばかりしていました。誰と誰が付き合ったとか、誰が浮気したとか、誰のことが好きだとか。普通の恋バナをしていると、大体意見が食い違う場面に遭遇します。「いや、その人はやめといた方がいいよ。」何度もでてきたこの台詞。言ったことも言われたこともあります。笑 やめた方が良い、別れた方が良い、という言葉は基本的にはその先に失恋が見えるから出てくるものではないでしょうか。でも、友達に言われたくらいでは嫌いにはならないので、そのまま続行して失恋します。私も過去に、止められた相手と恋愛関係になって傷ついたこと、ありました。しかし、時が経てばそれは全て経験になります。その時は大泣きしたけれど、今ではその時失恋しておいてよかったと心から思うのです。これは友達を見ていても実感しました。今失恋しても後々それは経験値になるけれど、ここで自分の心を無視した選択を取ったら長く後悔することになる。恋愛においての選択の基準は、常に自分の中にしかないのです。

高校受験で考えた“正しい”人生

まったく同じ問題が、中学3年生の進路選択の時期にやってきました。私は結果として音楽高校に進学したのですが、これが本当に周りを困らせました。それまで、音楽科の進学も考えてはいましたが現実味はなく、普通科を受験する予定でいたのに、3年生の夏になって急に音楽科に進学したいと言い出したので、先生も親もびっくりです。周りには反対意見の方が多かったこともあり、自分の生き方についても中学生なりにすごく考えました。私にとっての幸せ何か。その結果、やはり今ここでやりたいことをやらなかったら死ぬまで後悔するという結論に。結局、私のわがままを通し、音楽高校を受験しました。結果として合格することができ、そのまま音楽を勉強し続けている現在ですが、この時の私の『音楽科を受験する』という選択が正しかったかどうかは、私が死ぬときまで分かりません。逆に、死ぬときに後悔しなければ、少なくとも私の中では間違いではありません。友達の受験とその後の高校生活をみていても同じことを思いました。第一志望の高校には進学できなかった友達も、その後の高校生活は彼女にとって確実に意味のあるもので、そこでしかできない経験をしているというのは紛れもない事実です。突き詰めて考えていくと、物事を選択するときにそれが正しいかどうかという基準は存在しないと思うようになりました。受験に落ちたか受かったで人生の幸せが決まるわけではありません。人生どうなるか分からないから、今の自分と向き合い、後悔のない選択をすることしかできないと高校受験を通して実感しました。




“正しさ”からの解放

これらの経験から、物事を選択するとき、人生において本質的な“正しさ”は無いと考えるようになりました。もちろん、道徳的な正しさ、資本主義社会における正しさの基準は存在します。しかし、この“正しさ”という信念だけを判断基準にして物事を捉えると、私は生きるのが苦しくなってきます。何故なら、その“正しさ”以外は“悪”ということで受け付けられないからです。中学生の私は正義という言葉に囚われて人の考え方をまったく受け入れられず自分の“正しさ”の基準を自分と周りに押し付けることしかできませんでした。正義に囚われていた時代を思い返すと、しんどかった。。。自分の中に正しくない感情が芽生えたときは、それを認めずに噛み殺すかそんな自分を責めます。自分の正しさの基準に反した人に出会えば説得しようと攻撃し、納得いかずにイライラするだけです。この、“正義”という呪いから解放されるには自分ときちんと向き合うことがまず大切なことだと、恋バナをしたり、受験を経験したりする中で考えるようになりました。自分と向き合うことが、NVC的には『観察』して『感情』を認めることなのだと思っています。

正しさを手放したらコミュニケーションが楽しくなった

本質的な“正しさ”が無いと考えると、人の考えや選択とぶつかることが無くなりました。「その選択は間違っている」と考えないので、自分とは違った価値観を、心から認められるようになったのです。心から認められれば、価値観の違いが苦ではなくなるので、人と価値観の交流ができるようになりました。こうして価値観の交流を繰り返していくうちに、自分がアップデートされ、内面が豊かになっていきます。こう考えると、価値観の違う人との交流こそが、私にとってコミュニケーションの面白さになりました。

コミュニケーションを楽しむこと

価値観の違いが苦ではなくなり、その先に面白み感じてから、私は人とのコミュニケーションが楽しくなりました。人と関わって交流することが、衝突する可能性もある少し不安なことから、ただ共感の楽しみや気づき、学びの場でしかなくなったのです。Co-Edoのようなたくさんのコミュニティがあり、さまざまな価値観が存在する場所に関わることも、“正しさ”を手放すことでより楽しく感じられるのではないかと、Co-Edoと関わって、また実感しました。何か新しいコミュニティに参加するとき、新しく人との関わりを持つときにある不安のようなものが、“正しさ”を一度手放してみることで少し楽になるかもしれません!